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アルコール関連問題

手記

一気飲ませの壮絶な苦しみから立ち直った息子

匿名希望

1997年5月のある日の朝刊は、一気飲みについて、かなりの紙面をさいていた。それを読み、かなり考えてから、主人に、「あの時から8年もたったのだから、社会に少しは訴えて、つらい経験をする人をなくしたい」と言うと、「そうだな」という答えが返ってきた。

それでこうして、重い心の扉を開き、原稿に向うことになった訳である。様々な事情があり、私の友人1人に語った以外は、いっさい口を閉じ、余り思い出さずに暮らしてきた。息子もあの時以来、そのことは口にせず、今も思い出したくないと思う。

8年前(注:1989年)の春、第一志望の大学に合格した20才の息子は、舞い上るような気持ちを、おさえるようにして、大学の門をくぐった。ようやく決めた文科系クラブの、泊まりがけの歓迎会に参加した息子は、次の日の夕方、幽霊のような顔で帰ってきた。部屋に入るや「お母さん、精神科につれていってくれ」と言った。次の朝、私はうろたえて、あちこちに電話し、ようやく精神科を捜しあてた。

なぜ、息子が突然「精神科に」と言ったのかは分からない。息子に思い出させたくないので、今後も知る由もないが、このままでは自分がどうなるか分からないという不安感が、本能的に彼にそう言わせたのだろうと思う。精神科では、息子と私は別々の先生にかかることとなった。

息子は、先輩達に、原液のままのウィスキーを一気飲みで何杯も何杯ものまされたという。ビールを少しのんだ位の経験しかない彼は、すぐ倒れたらしいが、余り深刻には思われず、顔にジャージャーと水をかけられたようだと言う。むろん、救急車で運ぶような処置はとられず、恐らく朝までそのまま放置されたようだ。そしてかなり吐いたのだろう。人のシャツを着ていたのに気づいたのは、帰宅してからだった。

次の日から、彼は「死にたい、死にたい」ともらす様になり、母親には、余り話さない子だったのに、子供がえりをした様に「お母さん、お母さん」と言うようになった。ベッドにはりついたまま苦しがり、悶え、私は食事毎に2階へ食事を運んだ。青年期特有の劣等感は、多かれ少なかれ、誰にでもあると思うが、彼は、それを三つ程、悩みとして私に話し、ひどくこだわっていた。精神科へ行く時も、人目がこわく、電車にも乗れず、タクシーで行った。いよいよ思いつめて、死にたいと云う息子に、何といったらいいのかという私に、先生は、「ただ『そうなの』ときき流すようにうけとめて下さい。」と言われた。「元気出して」と励ましたくなる自分をおさえるのは至難の業に思えた。

「体の中の機能が一つひとつこわれていく」とか、「脳の線が一本切れたようだ」とか恐しいことをよく口ばしった。アルコールの血中濃度が一気に高まると、脳がおかされることがある—とはあとで知った。その時に知らなくてかえってよかったと思ったりもする。

本当に、あとほんの少しのまされていたら、死に到っていたと思う。今にも命をたちそうで、彼の部屋に入る度に、首をつっている姿を連想し、ベッドにいると、胸をなでおろすことが何度もあった。精神病院に入院させてくれと何度もいわれ、主人と検討した時期もあった。それでも、少しずつおちつき、私と一緒なら、電車にものれるようになった。

真面目な性格の息子は、休んでいる大学のことが気になり始め、教科書を見たりしていたが、ある日、思いつめたような顔で、大学へ行くと言って一人で出かけた。私を寄せつけず、ただならぬ空気を感じたが、大人の彼を止める事は出来なかった。精神科の先生に相談すると、「万が一、不測の事態がおこっても、こればかりはどうしようもない」と言われた。会社にいた主人も「帰る迄待つしかないな」とあきらめた風だった。この日は1日中、ニュースで電車への飛び込み事故あないかと、ラジオにかじりついていた。午後3時頃、疲れた顔で帰ってきた時のうれしさは、今も忘れる事が出来ない。この日を境に、ゴミ箱にゴミがたまる様になった。こんなことをいうと変に思われるかもしれないが、死んだ様になっていた息子のゴミ箱には、長い間、ただの一つもゴミがたまらなかったのだ。人間らしい生活が少しずつ戻るにつれ、ゴミの量がふえていった。

その後、大学へは休学届を出し、再び学校に通えるまで精神状態が回復するのを待った。

私はこの苦しい時期に、かえって人に言った方が心が晴れると思ったのだが、先生は「人には話さないで下さい」と言われた。それでもお願いすると、「1人位なら」と答えられ、前出の友人に電話しては、少し心を軽くすることができた。この時なぜ「話さないで」と言われたのか、今もってわからない。いつかお尋ねしたいと思うが……。

しかしながら、先生方には本当に息子の命を助けていただいた。今日、普通に社会生活を送れるのは、偏に先生方のお陰と深く感謝している。

結局息子は復学し、無事に卒業した。積極的に就職活動をし、希望の企業へ就職することができた。今も彼の負った深い傷は癒されることはないが、見た目には以前の息子と変わらない位に立ち直った。ビールは何とか飲めるものの、強い酒は臭いをかぐだけで吐き気がするという。幸い、今までのところ会社で無理強いをされたような気配はなく、息子も苦い経験をしているので何とか逃げ切っているのだろうと思う。

大学やクラブの先輩の見舞いや謝罪は全くなかった。しかし、息子のことを考えると、抗議や訴訟を起こす気など全く起こらなかった。今はただ、息子の前ではあの事には触れず、そっとしておいてやりたい。

大変な経験を、私達家族はしたのだが、死に到らなくとも、別の壮絶な苦しみがあることをわかっていただきたくて、重い気持ちでペンをとった次第です。