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目次
 
大久保 恵美子さんの手記
お母さん、遅かった
夜中の12時頃、警察から電話があった。「亨さんはおたくの息子さんですか。事故がありまして…」
あとでまた連絡するといって、電話は切れた。不安でたまらず、事故現場の警察に電話をかけ、やっとのことで病院名を聞き出して向かった。
午前1時に病院に着いた。入り口にはパトカーが数台駐車し、警察官がたくさんいる。事の重大さを一瞬のうちに悟った。案内されて救急車に駆け込むと、息子の姿はなく、レントゲン写真がかかっているだけ。看護婦さんが「お母さん、遅かった…」
カーテンが引き開けられ、息子の亨が動かない体で横たわっていた。私は頭のなかが空白になり、
「うそよー、どうしてー、いやー!」
とただ泣き叫んでいた。
その時から、私の時間はとまった。
1990年10月11日夜。亨は飲酒運転の車にひき逃げされ亡くなった。亨は当時下宿をしており、友人と夕食を食べに出る途中だった。事故のとき亨と一緒に歩いていた友人は「ジグザグ運転で突っ込んできた。ブレーキも踏まずに逃げた」と言っていた。犯人は60歳になる立派な社会的地位もある人間。ショックだった。12日朝に警察に出頭していた。テレビのニュースが「出頭した時点でもアルコール分を検出」「飲酒ひき逃げ」と説明していた。
裁判の経過
1990年10月30日 犯人起訴。
1990年11月30日 第1回公判。夜、被告は保釈金を積んで保釈されたと聞き、がく然。
1991年1月6日 被告が家を訪ねてきた。「息子さんは自分から車に飛び込んできた。私は酒を飲んでいたが、まともに運転していた」。謝罪の言葉はなかった。
1991年3月8日 第3回公判。1年6ヶ月の求刑。亨の命の重みはそれしかないのか!
1991年11月8日 担当検事より電話。亨が事件の時に着ていた服などを、東京の鑑定人のところへ送るようにと言う。鑑定の結果、「歩道上の事件」だったことが確認された。
1992年1月30日 第8回公判。補充論告は「車道上の事故であったが、被害者に落ち度はない」。求刑も変わらず。「歩道上の事件」という鑑定結果が覆っていた。夫が血相を変えて、裁判官や検事正に抗議の手紙を書いた。
1992年2月14日 第9回公判。判決は、求刑どおりの1年6ヶ月の実刑。今の日本ではこれがぎりぎり。検事が補充論告を訂正。「被害者は歩道の内側にいた。加害者は被害者をはね、歩道に乗り上げてタイヤをパンクさせて逃げた。同行していた友人をもはねる寸前であった。前途有望な青年の生命を奪った責任は重大である」と裁判官が判決主旨を述べ、救われた気持ちになった。
被害者は情報を与えられず、発言も許されず…
被害者には警察や裁判所から何の情報も教えてもらえない。犯人逮捕・起訴を知ったのは報道を通じて。裁判のスケジュールさえ知らせてもらえない。
被告は裁判では「被害者が勝手に飛び込んできた」と主張し続けていた。被害者側は反論しようにも、証言する場がないのだ。
亨と事故当時一緒だった友人の証言で、事故当初の調書は「歩道上の事故」となっていた。ところが後日、警察官から「歩道でひかれたならもっと体の傷があるはず」「もっと大きな音がするはず」などと言われて混乱した亨の友人が「わからない」と言ったことから、2度目の調書では一転して「車道上の事故」に。裁判の間も「歩道上」「車道上」の判断は二転三転した。
私は担当検事に手紙を書き、被告のとった行動や、亨を思う気持ちを訴えた。裁判のあと、検事に直談判に行ったこともあった。飲酒運転の害に関する資料を集め、あちこちのマスコミや、新聞で知った同じ立場の被害者につぎつぎ手紙を書いた。テレビや新聞の取材にも応じた。
結果、最終的には亨に落ち度がないことが認められた。
それにしても、これだけの働きかけをしなければ、裁判で何が行なわれようと被害者は黙ってじっと見ているしかないのか。悲しみと混乱のあまり声を上げることもできず、何年たっても苦しみのなかでじっと耐えている被害者たちが、数えきれないほどいる。
DDC(飲酒運転に反対する市民の会)設立
あちこちに働きかけるなかで、私の訴えを受けとめてくれる人に出会うことができた。
ASKでは、飲酒が運転に及ぼす影響とともに、アメリカにあるMADD(飲酒運転で子どもを殺された母親たちが作った会)の存在を教えられた。
日本滞在中に幼い亨をかわいがってくれたアメリカ人の弁護士さんの助けでMADDに連絡をとり、たくさんの資料をもらった。心のこもった手紙(下記)も添えられていた。夫が資料の和訳を手伝ってくれた。そのなかに、子どもを殺された親の悲しみに関するものがあり、「あなたが悲しいのも、眠れないのも、食べられないのも当然。でもそれで気が狂ったりはしない」と書いてあった。泣いている私に「泣くな!」と怒鳴ってばかりいた夫はそれを熱心に読み、それから私を怒鳴らなくなった。後日、実際に訪問したMADDで、私は「もっともっと怒り、泣きたいだけ泣きなさい」と励まされた。
また、MADDの資料により、アメリカでは、飲酒運転で人をひき殺すと、10〜20年の刑がふつうだとも知った。
日本の警察庁にも連絡をした。裁判の制度に納得がいかないことを電話で話すと理解してくれ、犯罪被害者に関するシンポジウムに招待してくれた。シンポジウムでは、壇上のシンポジストの1人が「日本の被害者からは、困っているという声はない」と発言した。私は思わず立ち上がって、自分の思っていることの数々を訴えた。
数ヶ月後、警察庁から電話があった。被害者の精神的サポート、被害者保護からみた刑法の研究が始まったとのこと。警察庁は被害者に接するときの心得を作成中という。私のシンポジウムでの発言が考慮されたのだ。
亨の一周忌にあたって、これ以上同じ悲劇を味わう人をださないため、「飲酒運転に反対する市民の会」を作った。
感覚のマヒ
あの事件の直後、私はあまりのショックにすべての感覚がマヒしてしまい、何も考えられなかった。はたから見たら、冷静に行動しているように見えたかもしれない。しかし日がたつにつれ、犯人に対する怒りがこみあげてきた。私は無気力になり、食欲もなくなり、夜も眠れなくなった。亨はもう食べることもできない、と思うと、食事がのどを通らない。体重がたちまちのうちに10キロ減った。
誰とも話をしたくない。電話にも出たくない。「どうしている?元気?」と聞かれて、元気でいられるわけがないのに、うるさい、と思う。亨と同い年の子どもを連れて遊びにきた友人に、悪気がないのはわかっているが、話をしているとたまらなくなり「お願いだから早く帰って!」と何度も口をついて出そうになる。
職場では、なんとか普通に仕事をしようと努力していたが、話をしている途中で突然涙があふれだしてしまったりした。
「泣いていて当然」
この怒りは、どうやってもおさまらない。涙もとまらない。私は精神科医を訪ねた。このままでは気が狂ってしまう。とにかく涙をとめる薬がほしいと頼んだ。
ドクターは「あなたはこんなに不幸な出来事にあったのだから、悲しくて毎日泣いているのも当然だ」と言った。「仕事ができるわけがない。犯人に対して怒るのも当たり前、その怒りを大切にしなさい」と。私は心からホッとした。
耐えがたい不幸に襲われた人は、心のなかにふたつの時計を持っているのだと、ドクターは言う。自分にとって認めたくない事件が起こったその時から、頭のなかの時計は時を刻むのをやめてしまった。けれど現実の時間は容赦なく流れていく。この不思議な感覚はもしかしたら一生続くかもしれないが、異常でもなんでもない。自然なことなのだ、と。
言われてうれしいこと、傷つくこと
「毎日亨君のことを家族で話しています」という友人からの手紙がうれしい。そっと花を届けてくれる人の心遣いに心がなごむ。あちこちのマスコミに事件のことを訴え始めた私に、「なにか手伝うことはないか」と聞いてくれる人の言葉が心強い。
私のもとに、同じ立場の遺族から、たくさんの手紙が届くようになった。
しかし、この悲しみ、苦しみを他の人にわかってもらうのは難しい。「そんなにやせて、体をこわしたらどうするの?」「いつまでも泣いていると、子どもさんだって成仏できないわよ」「人生の苦労を経験しないですんだと思えばいいじゃない」「他にもまだ子どもがいるでしょ」「考えてもどうしようもないことよ」悲しみや怒りがこみあげてどうしようもないとき、こんな慰めや忠告はかえってつらくなるだけ。ただ黙ってそばにいて、気持ちを受けとめてくれれば、それだけで救われるのに。私にとってはそんな相手がドクターであり、ASKのスタッフだった。必死の思いを受け入れてもらえてこそ、自分をふりかえるゆとりもできて、冷静になれる。悲しみも怒りも否定されてしまったら、自分でもわかりつつ破滅に向かうしかなくなってしまう。

家族それぞれのプロセス
亨の服を着て、亨のカバンを持って出かける次男を見るのがつらく、何度も「亨の服は着ないで!」と言いそうになった。精神科医は、彼なりのやり方で悲しみを克服しようとしているのだと説明してくれた。亨のものを身につけた次男に「お兄ちゃん、喜んでいるね」と声をかけたら、ニコッとうれしそうな顔をした。
亨に厳しかった夫。そんな夫のカバンのなかに亨の写真が大切にしまわれているのを見た。夫もまた、悲しみや怒りに苛まれていたに違いない。それでも、必死で冷静さを保っていてくれたからこそ、私たち家族はこれまでの修羅場をなんとか乗り越えることができたのだと思う。
私は次男との会話で、やっと亨の名前を口にできるようになった。「ここ、亨ときたね」「これ亨が好きだったね」
亨がかつて通っていた剣道場に、近づくのがつらくてずっと遠回りをしていたが、やっとこの道を通れるようになった。私はこうつぶやいている。「あの子は亡くなったわけじゃない。遠くにいってしばらく会えないから、私はここに来て、なつかしんでいるだけ」

MADDから大久保さんへの手紙
親愛なるエミコさんへ

ニューヨークのギンズバーグさんから連絡をもらいました。私は、あなたたちの大事な息子さんを飲酒ひき逃げで殺した犯人が、たった1年6ヶ月しか刑務所に入らないことを、悲しく思います。アメリカでも昔はそうでしたが、今は一段と厳しい判決が申し渡されるようになりました。

あなたがた家族が悲惨な出来事から立ち直るには、長い時間がかかります。多くの人は、しばらくすれば立ち直ると思っているようですが、実際は何年もかかるものなのです。いったいどこの親が、自分の子どもを埋葬しなければならないなどと考えたことがあるでしょうか。悲しみのために気が狂ってしまうかと思うかもしれませんが、あなたがたの悲しみや怒りはまったく正常な反応なのです。

一周忌が近づくにつれて、もっとつらい思いをするかもしれません。とくにその数日前は苦痛を味わいますが、これも当たり前なのです。

今後、あなたたちはMADDの資料を定期的に受け取ることになります。遺族の方は会費はいりません。
また、あなたがアメリカへ来ることを知って、とてもうれしく思います。サンディエゴのMADDによく頼んでおきました。あなたが勉強にくることはわかりますが、息抜きとエネルギーの補給も必要ですよ。ゆっくり観光もしてくださいね。ではまた連絡します。
MADD本部 被害者支援部長
ステファニー・フロッジ