| 私もちょっと一言! |
| このページではみなさんの体験談、意見などをメールで募集しています。「ACという言葉に出会えて、私はこう変わった」とか、「ACについて、こう思っている」とか、ここに掲載されているお便りに対するコメントでも、なんでもOKです。どしどしお便りください! |
|
|
28歳の大人になり、結婚のため、数年前に家を出たときは爽快感でいっぱいでした。 |
| 私は生きていていいのか、わからなくなる。 看護士として精神病院で働き、アルコールのグループを任され、 結婚もせず、気ままに生きている変わり者の私。 父を見捨てました。アルコールでなにもかも失い、頼れるのは 一人娘の私だけなのに。 母は長い年月を経て、父から逃げる術を得て、私をおいて行ってしまい いつも、ひとりぼっちだった。 アルコールにおぼれ、騙され、借金まみれになり、家も失った。 母の行き場もなくなり、許せない母との生活が始まった。 すべてを失った母は、私に当たるようになり、耐えられず、首を吊り あと一歩のところで母に助けられた。 今でも、あの時死んでいたらと思ってしまう。 こんな私でも、看護士。 おかしいけど、生きて働いてる。 これから先生きていけるのか、全然自信がない。 でも私今生きてる。 とりとめなく書きました。 皆さんのメールを読んで少しほっとし、思いを誰かに読んでほしいと 思ったので。勝手ですみません。 |
| はじめまして。24歳、OL&主婦です。 父はアルコール依存症。今は断酒会に通い続け、どうにか断酒ができてる様子。 父は回復に向かっているのに、私はそれに反比例して生きにくさを感じる毎日。 4月に水沢先生の講演を聞きに行き、それから自分の中でいろいろな変化があった。 ずっとだんなに抱いていた不満、それを冷静にヒステリックにならずにだんなに打ち明けた。 正直、もうだんなにはついていけないと・・ しがみつくのをやめようと思って話したせいか、だんなにはうまく伝わったようだった。 そして、自分は気が付くとACミーティングに参加。 第一歩を踏み出しました。 これも、先生の講演を聞いたおかげ。感謝です。 でも、ここで気になることが起きた。 ACミーティングに参加して以来、自分の感情が今まで以上にコントロールできなくなった。 ずっと抑えてきたものを吐き出してしまったら、なんだか以前よりイライラしたり、自分の思い通りにいかないことに対してものすごい怒りを感じる。 そう、ここ最近、いつも何かにイライラする。 だんなに対して、会社で・・・ でも、そのイライラや怒りは事が起こるからでない。 常にイライラしてる。 どうしてだろう。わからない。 その怒りの矛先はほんとは親なのか… かまってほしいとだんなにだだをこねる。 だんなには「子供じゃないんだから。俺だって仕事をして疲れてるんだ」・・・そういわれてしまう。 かまってほしい。 ずっとそう思ってきていた。 それをかなえることができたのは親だったのか・・・ いまさら甘えられないよ。 |
|
最近までACという言葉の語源も大人になれないこどもの部分をもっている大人ということだと誤解していました。 |
| いつも不安だった。いつも孤独だった。いつも自分が正しいと、無理に言い聞かせて いた。いつもいつも他人の過ちが許せなかった。意味や理由などない。息苦しい生き 方だった。逃げた。現実の息苦しさから。さらに苦しくなった。 誰のせいでもない。 まだ間に合う。でも苦しい。 やり直せる人は素晴らしい。 だから苦しい。自業自得などの理解はできる。 故に苦しくなる。 でも、まだ 頑張ろうとしている。 |
|
今年36歳、「よくここまで生きてきたな〜」 私が母のお腹にいたときに父親は高校生の女性と出て行った。 「おまえがこうなったのも、おまえの父親のせいだ
電話でそういえ!父親に言え!」 再婚して妹ができて、「幸せ」な時がくるはずだった。 あれから数十年経った今、鮮明によみがえる心の傷、 「思春期の自分」(リストカット・薬物依存・SEX依存)との葛藤も書くことで自分からの解放と、分かち合いをしたかったのだけど長くなるのでまたの機会に。
|
|
私は幼いころ、確か幼稚園時代から中学生まで 父から暴力を受けていました。 中学生の時、私は人をいじめました。 高校生になり、彼氏が出来ました。 いま、私は看護婦をしています。 新人看護婦ながらも精神病院に就職したのですが、 |
| はじめまして。ACってなんなのか、まだよくわかりませんが 「私もちょっと一言」を読んでメールしました。 僕は埼玉に住んでいる中学生です。このホームページに来たのはセガのところにあった、リンクです。 別になんとなく読んでたつもりでしたが、読んでいて、 泣きそうになりました。 僕はAC(ACがなんなのかわからないけど)ではないですが、神経症(だったと思う)にかかっています。 アダルトチルドレンと言う言葉を見て、家にあった本を発見しました。 まだ読んでないですが、これから読むつもりです。 なにが言いたいのか自分でも分かりません。 ただ、自分にも似たようなとこがあったのでメール送ろう と考えたのかもしれません。話がまとまってないですが、 失礼します。ではでは。 |
|
今思えば、私は、小さい頃から、父と母に仲良く居てほしいために、弟や妹たちが困らないように、悲しまないようにと、行動していた。 アルコールとギャンブルをやっていた父、そんな父に対して恐怖で我慢しておびえていた母、父に暴力を振られることなく、家の中が落ち着いているときは、ここぞとばかりに父に攻撃している姿もよく見た。なんか変・・・と思いながら家の中のもめごとが、不安が大きくなると自分が力が無いから、こうなっちゃったんだと強く責めることで、自分を否定し、生きていた。 そんな生活が、25年ほど続き、もうやだー!の自分の心と体の叫びに、耳を傾けた時、父と母から、子どもとして親を裏切って最低だという言葉をもらった。 悲しいやら、むなしいやら、怒りやらいろんな思いが重なったが、それでももういやだった。しばらくは、父と母の接触に緊張していたが、その緊張が少し取れてきた頃、ポカ〜ンとした心に出会った。ものすごい不安だった。このまま生きていけるのかな〜?こう感じるのは、やっぱり私が悪くて、両親の生き方を聞いていった方が良いのかな〜?とも考えた。 そんな時、参加していた家族教室で、ACという言葉を聞いて、受け入れられた自分に出会い、心がなんか温かい気持ちになった。生きていけるかもしれない、生きていっていいのかもしれないと・・ それからの私は、ACという言葉を生活の中に入れながら過ごすようにしている。おかげで、自分を全面 的に否定していて、ほかの人と比較してねたんだりすることが少なくなった分だけ、生きやすくなった自分をかわいく思えるようにもなってきたことがうれしい。(^o^)丿 |
|
「私は、家族を幸せにするために生まれた」という気持ちが、私の中にはある。「お母さんとお父さんが幸せでないと、私は幸せになってはいけないような気がする。私だけ幸せになってはいけないような気がする」と思う。カウンセラーから、何度も「お父さんを幸せにするのはお母さん。お母さんを幸せにするのはお父さん」と言われたけれど、しばらくするとまた戻ってしまう。 母は、私が高校のときに突然倒れて、帰らぬ 人となった。思春期の私にはショックだった。 私が反抗していたら、母が壊れちゃった。そんな罪悪感のようなものが残った。そして、周りの人からは「早くお母さんと死に別 れたかわいそうな子」というイメージを与えられた。 母の死後、私は親に逆らって自立することをやめた。父を悲しませないように。それが私の行動基準になった。 父も娘を悲しませないように、いつもそう思っていたように思う。そして、相手が幸せになるのを待ってから、自分の幸せを考えようと思っていた気がする。 私は経済的には父に依存していたが、情緒的には食物やアルコールに依存した。当時は過食症という言葉は知らなかったが、そのものだった。過食し下剤を使っていたのだ。吐こうとしたが、それはできなかった。 仕事も父がすすめるもの。結婚する相手も父が満足するもの。すべて私の価値基準は父だった。父が喜ぶことをすることで、また、母が生きていたころの父が戻ってくると思った。家族が戻ってくると思った。 姉に対してもそうだった。姉が辛そうにしているのを見るのが辛かった。だから、姉の顔色を見て過ごした。姉の喜ぶ顔を見ることで幸せな家族が戻ってくると思っていたのだ。 この共依存的な生き方は、ずっと続いた。母が死ぬ 前から、私の家にはその要素があったのだが、母が死んだことでいっそう拍車をかけたのかもしれない。 私が食物に依存していたころ、父はアルコールに依存していた。そして、今から五年前に、父のアルコール依存はどうにもならなくなっていた。そして、ふと出会った一冊の本によって、父は依存症の病院に入院し、私はACという言葉をもらった。 それから、私はミーティングやワークショップに通 った。「こんなに頑張ってきた私が病気? 早く治りたい」という気持ちがエネルギーになっていた。 そして、ようやく父も同志だと思えた今年の夏、父は意識不明になり、一度は意識が戻ってくるかと思ったが、合併症などで二ヵ月後に母のところに旅立っていった。 この看病のとき、母が死んだあとのことがフラッシュバックして、私は怖かった。また「かわいそうな子」になるのかと思った。でもカウンセラーが「そのときと違うのよ」と強く言ってくれたおかげで、違う気持ちで看病できた。「父を一人で死んでいくかわいそうな人にしてはならない」という思いがエネルギーになった。 仕事を終え、病室に行き、二時間いる。そんな生活が二ヵ月続いた。でも、この二ヵ月が親子でいられた年月かもしれない。私の中の父に対する怒りや恨みはなくなり、素直にそばにいられる私がいたのだから。そして、もう二人とも限界だなと思った日、父は母のところに逝った。 私は今まで楽でない生活をしてきたけれど、けっしてかわいそうではないと思った。ちゃんとやり直したじゃないの。そう思ったとき、私が見ていた母の顔はかわいそうで不幸に見えたけれど、そうではなかったんじゃないかと思えた。 母も逃げなかったもの。私がこの家から離れられなかったのは、父を一人にしないこともあるけれど、どんな人生を母がおくったのか知りたかったのかもしれないと思った。生きていくうちにはいろんなことがある。そこから逃げなかった私と母がダブって見える。母はかわいそうじゃなかった。父もかわいそうじゃなかった。というところにやっと辿り着いた。 一つの区切りになったと思う。これからあとはわからない。でも、私の本心が生きたいように生きるのだと思う。 |
|
僕の人生は、常に他人に評価してもらおうと思って、無理して自分を合わせたり、アレコレ努力してみたりしてきたようだ。学校でも会社でも、いい子、いい子でいようとした。その度に失意におそわれるようになった。
というのは、行動する度、すべての人がいいように言ってくれるわけではなかったからだ(いい子、いい子であればそれはそれで嫌う人も当然いる)。
なぜ、それにも関わらず、他人に評価を求めるのか? 結局自分でありのままの自分自身を認めてあげられないことが一番の問題であることに気付いた。ありのままの自分自身が無いから、他人の評価を気にする、もちろんすべての人に認められることはないから、さらに自分を殺して認められようとする。その繰り返しだった。
逆に言えば、自分を認めてくれる人は、この世に数人いればいい方だとさみしい話だが、ある人に言われた。幼少時期からの経験も大きいけど、自分自身がまず第一に努力していることを認めてあげることができるようになれなければ、この苦しみから逃れられないだろう。そうなった時初めて、人の目など気にせず、自分らしく生きている自分を発見することができるのだと思う(言うは易し、やるは難しやな)。 |
| 私はいわゆる機能不全家族で育ちました。父と母は、向き合えばののしりあい殴りあい、それが過ぎれば、父は酒とタバコと仕事にのめり込み、母は私に当たる、家事をこなす、ショッピングに狂う、という状態でした。そんな環境に育った私が28歳で結婚し、30歳で子どもを産んだのです。 子どもは女の子で、これがムチャクチャ可愛い。「この子の無邪気な笑顔をうばいたくない」そればかりが、私の心の中にある願いです。 3年前、彼女の不登校問題が起きたとき、私の中の傷ついた子どもが暴れました。 先生、教育委員、何人かの友人、両親、そんな人たちから、いっせいに非難の声をあびました。 「あなたがそんなだから、子どもがおかしくなった」 その台詞をカウンセラーに言われたとき、気がついたら、電車に飛び込みそうになっていました。それを救ったのは、運転席の窓ガラスに浮かび上がった娘の笑顔でした。 「結局、私は一番愛している人たちを、一番傷つけてしまう」 それまでもずいぶん気をつけていたつもりですが、それからは、ますます娘の表情(とくに目の表情と動き)に心を配りました。 私の中の傷ついた子どもが騒ぎ、彼女に当たると、たちまち彼女の目がくもるのがわかります。「あっ、私が子どものときにしていた顔だ」と感じます。子どもが転んだり思い通 りにならないことがあって泣きだすとき、「思いを受けとめてほしいのだな」と感じます。そんなときは、時間をかけてときには抱きしめたりしながら、私自身の心を整理して、悪かったことは謝り、あとは彼女の思いを二人で味わうような語りあいをします。 どんなに子どもが小さかろうと、不思議と「彼女は何かを感じている」という感覚があります。急がないで、ゆっくり時間をかけるつもりでやると、仲直りして問題が解けるのに15〜25分くらい、早いと3分ぐらいです。そのことで、私の中の子どももなぐさめられた感じになります。 また、仕事で忙しいときに、「お母さん、お母さん」と聞いてほしそうに声をかけてきたら(私のときは無視された)、「ちょっと今、手がはなせないの。少し待って」と告げておきます。一段落したとき、「ねえ、さっきのお話はなーに?」と聞くと、最初は「ああ、あれね」とさめた表情の娘も、話しはじめると本当に楽しそうです。「よかった」と私もうれしいのです。 そして思います。自分があの子ども時代を体験しなかったら、娘の表情が暗かろうが、淋しがっていようが、目の端の方でチラッと見て、気づかないか、気づかないフリをしてすませていたかもしれないな、と。もちろん彼女のすべての問題に私が対処しているワケではないと思うけれど、彼女を見ていると思えるのです。彼女は自分を肯定して生きている、と。 そして、そんな彼女の表情が、私自身の本音や問題を映す鏡のようになっているのです。 |
|
|
|
|
私の主人はアルコール依存症です。私の実家は機能不全家族です。私はACです。
3年前に主治医と出会い、断酒会に出会いました。断酒会はアルコール依存症の本人が自分を語り、酒を断つことで、自分の生き方を立てなおすところだと確信しました。
でも、ACである私は、入る余地がないという息苦しさを、どうしても感じてしまう。その理由をやっと文章にすることができました。
家族会に出ても母の世代が多く、その人たちから叱られているような、「こうしなさい」と強要されているように感じられて、泣いて帰るほどしんどい。誰もが私の母のように見えて、恐い。
断酒会は、父のためにある、主人のためにある、でも私のためにはないと疑いはじめた頃、主治医が「ACミーティングがあるよ」と教えてくれました。
今、ACミーティングに四回出席したところです。たとえるなら、今まで太平洋を漂っていて、やっと孤島を「見つけた!」想いです。そこにはすでに辿り着いていた仲間がいて、一緒に火をおこしたり、薪を拾ってきたり……のイメージです。
「そのままでいいよ」と認めあい、悲しみを共有し、新しい喜び、発見を分かちあい、ともに笑顔でその場に居ることができる場所です。
この会を自分のために大切にしたいと思います。この会に出会うために、今まで三年間、断酒会にお世話になってきたんだなあ、とあらためて主治医と断酒会に感謝しています。 |